中部山岳国立公園内であり、北アルプスの南端・乗鞍岳の裾野に広がる乗鞍高原は、標高1,500mに位置し、登山やウィンタースポーツの拠点でありながら暮らしが営まれてきた場所だ。そんな乗鞍高原に魅せられ、この地で生活や仕事をしながらアウトドアライフを満喫している人々にフィーチャー。第4回目は、宿泊施設「温泉の宿 Raicho」やカフェ「GiFT NORiKURA」を乗鞍高原内で営みながら、サスティナブルな地域創りを事業として展開している藤江佑馬さんに、乗鞍高原での日常と、今後この地域で企てていることなどを伺った。
宿や飲食店のサービスを通じて“サスティナブル”な価値観を届ける
2020年10月、日本政府が「2050年までに温室効果ガスの排出を全体として実質ゼロにする」という目標を宣言して以来、全国各地でゼロカーボンに向けた取り組みが積極的に行われるようになった。乗鞍高原は、脱炭素化に取り組む国立公園を対象とした環境省の登録制度「ゼロカーボンパーク」に最初に登録されたエリアであり、サスティナブルな観光地の先行事例として注目されている。
乗鞍高原で宿泊施設「温泉の宿 Raicho」やカフェ「GiFT NORiKURA」を経営する藤江佑馬さんは、そうした流れが訪れる前から、自身の事業のなかにサスティナブルな視点を取り入れてきた。
「元々学生時代から気候変動や地球温暖化に興味があって、そういう仕事に携わりたいと思っていました。それで、(大学卒業後に)天気予報の会社に入ったんです。独立後も、自分なりのそういう取り組みを宿やカフェをやるなかでやれたらいいなっていう思いはありましたね」
温泉宿をリノベーションし、2015年にオープンしたRaichoは、長期滞在する旅人が利用しやすいのが特徴だ。この宿泊形態自体も、サスティナブルを意識したものだという。
「宿泊日数が増えれば増えるほど、移動に伴う環境負荷は全体的に減ってきます。地域の負担も少ないし、本当の自然の恵みを味わっていただく滞在ができるっていう意味で、一番いいんじゃないかなと思いました」
Raichoではそのほか、太陽光パネルを導入したり、その補てんとして自然エネルギー100%の電力会社「ハチドリ電力」の電力を使用したり、資源回収ボックスを設置してゴミの分別を徹底したり、マイボトルの無料貸し出しを行なったりと、環境負荷を極力減らすための工夫を、宿の運営やサービスに組み込んでいる。
「ゴミに関しては、お客さんに分別してもらうシステムなので『これは何ゴミですか』と聞かれることもあります。ゴミ箱ではなく“資源回収ボックス”と書いているのは、『資源なんだよ』というのをメッセージとして伝えたいから。特に海外のお客さんが『素晴らしい』と言ってくれることが多いんです。海外ではどこに行っても、ゴミは結構一緒くたですから」
乗鞍高原観光センター内のカフェ、GiFT NORiKURAがオープンしたのは2019年夏のこと。乗鞍産のヤギミルクや果物を使ったジェラート、フェアトレードの豆を使い乗鞍で焙煎したコーヒーなど、地域産の食材をメインメニューに取り入れているカフェで、人気の観光スポットのひとつとなっている。
「2018年、ニュージーランドを旅したときに立ち寄ったスーパーマーケットで『EAT LOCAL, SPEND LOCAL, ENJOY LOCAL』と書いてあるポスターを見かけて。『すべてローカルで消費していこう』っていうメッセージに、その通りだなと思いました。結局、ローカルで資源を回していかないと都心にお金が行っちゃうので、僕らローカルの経済が豊かになっていかないなと。そこで誕生したのがGiFT NORiKURAなんです」
乗鞍高原を移住先に選んだ理由は山と温泉があったこと
藤江さんは、宿泊施設とカフェの経営に加えて、山のガイドや地域の観光振興に関する業務などさまざまな仕事に携わっていて、オフシーズンにあたる4月と11月の2か月間以外はほぼ毎日働いているという。そんな藤江さんにとって欠かせない気分転換が、朝のハイキングと温泉だ。
「山まで行かなくても楽しめる、気軽なハイキングがメインですね。毎日ではないですけど。じつは今朝も、善五郎の滝まで行ってきたんです。あとは、空いてるので朝に温泉に入ります。朝風呂は唯一のルーティンですね」
原生林のハイキングや本格的な硫黄泉の温泉を気軽に味わえるという贅沢な環境に身を置く藤江さんだが、Raichoを開業する前は千葉県内の企業に勤める会社員だった。
「山が好きで、学生のときに沢渡(上高地の玄関口)でリゾートバイトした経験があったんです。そのときに乗鞍にも遊びに来ていて、このあたりの景色や自然環境がすごくよかったので、『ゆくゆくはこっちに住めればいいかな』と思って。会社に10年勤めて自分として結構やりきった感があったので、マチュピチュへ旅に出て自分を見つめ直して、『自然のなかで暮らしたい』という夢を実行に移すことにしました」
移住先として、藤江さんが最終的に乗鞍高原を選んだ理由は、北アルプスの山にすぐ登れる場所にあること、温泉らしさを感じられる硫黄泉が豊富に湧き出ていること。山好き、温泉好きな藤江さんにとって、乗鞍高原はまさにこのうえない環境だった。
「乗鞍高原での滞在は、本当に自然のなかに住んでいる感覚になります。一歩外に出るといきなり大自然が広がっているっていう、その自然との距離の近さというのがやっぱり魅力ですよね。あとは、自然と暮らしが一緒にあるところも」
世界に誇るロングトレイルを。壮大なプロジェクトが進行中
会社員時代に香港に駐在していた経験をもつ藤江さんは、これまで約20か国に訪れたことがあるという。Raichoを始めてからも、宿のオフにあたる4月と11月には、一人で、または仲間とよく海外へ出かけている。今年の4月はニュージーランドへ足を伸ばし、ミルフォード・トラックとエイベル・タスマン・コースト・トラックを歩いたそうだ。このように海外をよく知る藤江さんだが、歩くフィールドとして乗鞍高原には大きなポテンシャルを感じている。
「乗鞍高原は、日本で一番いい場所だと思ってます。日本でもいろんなトレイルを歩きましたけど、気軽に、数時間でこれだけ楽しめるトレイルってそれほどないんじゃないですかね。行こうと思ったら3,000mの山の上まで行けるっていうのがあるので、それも魅力的です。この間、春にスタッフと乗鞍岳に行きましたけど、朝から歩き始めて、山頂まで行っても昼過ぎには戻ってこれました。上高地へも僕らはよく行きますね。槍穂もあるし、上高地の朝は人も少なくてすごくいいので、その時間を狙ってちょっと散歩して帰ってきたります。乗鞍岳だけでなく、周辺環境も含めてここはすばらしいなと」
中部山岳国立公園を経由して長野県松本市と岐阜県高山市の市街地をつなぐ約80㎞の観光ルートKita Alps Traverse Route(北アルプス・トラバースルート)が始動した北アルプスではいま、松本市と高山市の約100㎞を結ぶロングトレイルの構想も立ち上がっている。環境省、松本市、高山市、地域の人々が入り進められている壮大なプロジェクトで、藤江さんはそのプロジェクトの中心メンバーのひとりだ。
「信州と飛騨で『信飛トレイル』。まだ仮称で、これから募集などしながら決める予定です。(スタートとゴールにある)松本も高山もそれぞれ風情があって、旅感があるんですよね。しかもそれを北アルプスの山を越えて繋ぐっていう。歩き方も本当にいろんな選択ができます。おもしろすぎて、この話を始めたら止まらなくなっちゃいますね(笑)」
乗鞍高原は信飛トレイルのメインルートには含まれないそうだが、このロングトレイルに注目が集まり国内外のハイカーが増えれば、周辺地域である乗鞍高原へ足を伸ばす人もきっと増えるに違いない。北アルプス・トラバースルートも含めこれらの取り組みが実った未来に、乗鞍高原はどのような場所であることが理想なのか。藤江さんに伺った。
「海外の人は、乗鞍高原を『COZY』、居心地いい場所だって言ってくれます。東京は東京、京都は京都で魅力があると思いますけど、せわしいじゃないですか。せわしい旅のなか、ひとつオアシスみたいな乗鞍高原でゆったり自然を楽しんでもらえたら。それは今までもそうだし、これからも同じではないでしょうか」
PROFILE
藤江 佑馬(ふじえ ゆうま)
千葉県出身。有限会社Raicho.代表取締役。公益社団法人日本山岳ガイド協会認定自然ガイドステージⅠ・Ⅱ。一般社団法人信飛トレイル準備委員会代表理事。オンシーズンは仕事の合間を縫って北アルプスを中心とした山へ、4月と11月のオフシーズンは国内外の山やトレイルへ出かけている。
Twitter:@lo_yuma
Instagram:@yuma.loearths
Text:松元麻希
Photos:セツ・マカリスタ―